はじめに

「乱用できない社会」から「乱用しない選択をする社会」へ

学校での薬物乱用対策の種々層

有効な薬物乱用防止教育が備えるべき条件

残される問題




有効な薬物乱用防止教育の条件を考える

大久保 圭策

(2003年 第25回日本アルコール関連問題学会抄録集より)

はじめに

 青少年の薬物乱用防止のための教育が急務であることは、今さら論を待たない。従来の有機溶剤中心から、覚せい剤乱用の拡大、最近ではMDMA乱用の急増など、事態は深刻化の度合いを増している。また、教育改革国民会議で明らかにされた学校制度の新自由主義的な方向への改革は、現在の中学校・高校年代に広がりつつある規範意識の低下をさらに助長する可能性をはらんでいる。このような状況下で、有効な薬物乱用防止教育を考えるための条件について、若干の考察を加える。

「乱用できない社会」から「乱用しない選択をする社会」へ

 従来、日本の薬物乱用防止対策は、基本的に青少年を薬物に近づけないことであった。覚醒剤取締法施行後、覚醒剤を徹底的に排除する施策が採られ、事実上日本国内での覚醒剤製造は不可能となり、日本にはほとんど覚醒剤が存在しないという時代が長く続いた。
 薬物乱用防止対策は感染症対策のアナロジーで考えることができる。感染症に対する戦略は大きく分ければ二通りある。ひとつは、WHOが天然痘を地球上から消滅させてしまったように、病原体を徹底的に排除することである。もう一つは、宿主側の免疫力を付けて病原体がやってきても発病しない身体にするという方法である。
 この二つの方法は一長一短で、宿主側の免疫をいくら高めても、病原菌だらけの不衛生なところでは感染を免れることは出来まい。かといって、病原体を徹底的に駆逐する方法が、最良の方法かというとそうでもない。下手をすると自然に獲得されるはずの免疫力の低下を招きかねないし、個人が感染症から身を守るための努力がなおざりにされがちである。重要なのは、この二つの方法のバランスである。
 薬物問題に対する対策も、薬物自体を排除することと同時に、乱用する側の「免疫力」を強化することが重要である。「免疫力」とは、個人が「乱用しない選択」をする力のことである。しかし、幸か不幸か日本ではこれまで薬物の排除の方が効果を上げていたために、青少年に「乱用しない選択」ができる力を付与するための教育を行う必要性は必ずしも高くなかった。
 近年、違法薬物の徹底排除は事実上困難になってきている。「乱用できない社会」から、しようと思えば「乱用できる社会」が出現した。そうなると、むしろ問題の力点は、子どもたちが「乱用しない選択」をできるかということに移行する。

学校での薬物乱用対策の種々層

 薬物乱用者の増加は、常習的薬物乱用者と非乱用者の間に、ドラッグ・カルチャーに親和的、仲間集団に乱用者がいる、脱法ドラッグの乱用経験、違法薬物の機会乱用の経験があるなどのグレイゾーンとでも呼べるグループを出現させる。そして、このグレイゾーンは、常習的乱用者に比べれば人数の上では、常習的乱用者よりもはるかに多い。
感冒に対する治療・予防的介入は、感冒の予防、感冒の治療、重症化の予防、重症化した際の細菌感染症の治療がそれぞれ異なるように、薬物乱用への介入もその重篤度によって自ずと異なる。まず、ドラッグフリーな段階の生徒への乱用防止教育があり、グレイゾーンの生徒に対しての教育的介入、依存症への移行を予防するための介入、依存症への治療的介入が考えられる。
従来の薬物乱用教育は、主にドラッグフリーな段階の生徒を想定していたが、今後グレイゾーンにいる生徒に対する教育的介入・依存症への移行を予防するための介入が重要性を増す。グレイゾーンの生徒への教育的介入は、従来の基本的に乱用者と非乱用者を二項対立的に捉えた「ダメ!絶対」式の方法では必ずしも有効ではない。
グレイゾーンの生徒への教育的介入は、好機を逸すれば、結果は重大であるが、介入は容易ではない。しかし、現在の薬物乱用防止教育が有効であるためには、このグレイゾーンにいる生徒への教育効果が保証されていなければならないだろう。


有効な薬物乱用防止教育が備えるべき条件

 上述のごとき状況を踏まえ、有効な薬物乱用防止教育の備えるべき条件を以下に列挙する。
  1. 教育効果を評価し、その情報を教育実践にフィードバックするシステムが確保されていること。
  2. 生徒への教育以前に、教師・保護者の啓発が用意されていること。
  3. 生徒や学校の実態に即した情報が提供されること。
  4. 乱用者・非乱用者を峻別するのではなく、グレイゾーンを中心的対象とする内容を含んでいること。
  5. 依存に至っていない機会乱用者にとって、実際に有益な情報を含んでいること。
  6. 青少年のコンサマトリーな価値感に対して説得力を持っていること。
  7. 必要なときに情報にアクセス可能であること。
  8. 薬物から身を守るスキル(peer pressureへの対応など)の獲得プログラムを含んでいること。
  9. 生徒が自ら判断する能力を養う方向性を持っていること。
  10. 保健部、養護教諭、生徒指導、管理職がそれぞれの役割を持ち連携していること。
  11. 個別対応と有機的に関係していること。


残される問題

 薬物乱用防止教育の現場において、常に意識されながら、表だって議論されることの少ない重大な問題は、生徒の「なぜ薬物を使用してはいけないのか?」という問いへの答えであろう。法律や健康への有害性などを持ち出して答えることは容易である、しかしそれらの答えがそのような疑問を持った生徒を満足させるとは考えにくい。なぜなら、そこには法律という規範の遵守と、健康の保持増進の価値が自明のこととして前提されているからであり、「なぜ薬物を使用してはいけないか?」という問いを発している当の生徒が、その同じ前提に立たない限りその回答は無効だからである。
 生徒を前にして薬物乱用防止教育を行おうとするものは、この大問題を避けて通ることはできない。そして、その回答はおそらく一方通行的情報伝達としての狭義の教育の中には見いだし得ないのではないだろうか